劇団回想録2「劇団の解散、そして再発足」
益海愛子
(1967年入団「わがババ」「ジハード」など現在ハードスケジュール中)


私が劇団新人会に入団したのは1967年3月であった。
34年も前のことになる。

劇団の構成員には、現メンバーの長山藍子・横井徹がすでに在籍し
年長者でも40歳前だったとおもう。
新劇団が戦後再編成されて20年そこそこの時代である。
日本の経済も徐々に豊かになり、生活も安定し贅沢が身につき始め
大学は学園紛争にあけくれ、各地で労働者のデモや争いがあり
ベトナム戦争ではアメリカの北爆が強化され
反戦運動が高まる中、演劇に夢と希望を求めて入団したのだ。

夢中で過ごした研究生時代
だが、入団して2年と4ヶ月で劇団は解散してしまった。
それも私が、日本に返還される前の沖縄に行っている間に!

沖縄に行く前日は、新人会最後の公演となった俳優座劇揚での
『室内の戦い』と『寄り道』の2本立て公演の打ち上げで
演出の岩淵違治先生のお宅にお邪魔して騒いでいた。

渡辺美佐子さんから
「明日劇団に行くのなら持って行ってほしいのだが」と
頼まれものをしたのだが、沖縄に行くのでと断った。
翌日、生まれて初めて乗ったジェット機の中で
朝日新聞の記事を見て目が点になった。
「渡辺美佐子 劇団を退団!」
ウソ! 昨夜一緒だったじゃない。
おもわず叫んでいた。
昨夜彼女から預けられそうになったものは、退団届だったのだ。

劇団もその日は大変だったらしい。
というのは、退団届が届いていなかったからだ。
預けられたのは当時研究生で、現在劇団代表の
《小島敏彦》だったのだが、彼はよもやそれが退団届とは思わず
美佐子さんから預かったことも忘れていたらしい。

劇団としては、退団届より先に記事が出たりと色々とあった様だが
この結果、存続より解散という結果になった。

当時週刊誌には「親亀こけたら皆こけた」等の記事が出たのも
今となっては懐かしい思い出ではある。

その後、美佐子さんを中心にした旧新人会のメンバーが
演劇集団「兆」を。
若手演出部、準劇、研究生を中心にしたグループが、「反」発足。
それ以外といえば語弊があるが
ベテラン・中堅・若手のメンバーが話し合って
一緒に劇団を結成することになり、解散して8ヶ月後には
第2次劇団新人会が再発足することになった。
1970年3月であった。

旗揚げ公演は、当時新聞紙上を賑わしていた
教科書裁判を題材に、教育者の在り方をテーマにした
『若い座標』(主演・長山藍子)に決定した。
脚本は、当時話題のテレビドラマ『判決』の脚本家、本田英郎氏。
演出は高木卓也氏(現在は演劇評論家の八橋卓氏)

だが、台本の遅れから1稿、2稿となかなか決定打が出ず
7月公演の予定が、11月の北海道公演を旅初日として
ようやく幕を上げることが出来た。
劇団創立に一丸となって総力を結集し、稽古にはげみ
胸躍らせて上野から北海道に出発したのは、11月の初めであった。
札幌を皮切りに
小樽、北見、帯広、釧路、網走、函館室蘭、タ張、苫小牧と
巡演したように記憶しているが定かでない。

この公演、ほとんどのメンバーが海を渡るのは始めてであった。
11月がどの程度の寒さなのか見当もつかない。
東宝現代劇から新劇をやりたいと、研究生として入団した
北海道出身の千歩氏(現新人会)から説明を受け
相当の寒さを意識した皆は、着膨れ状態で出発した。
しかし、この年は暖冬であった。東京より少し寒いくらい。
部屋は東京より暖かい、そして乾燥している。
私達の格好を見て、主催団体の全動労協の担当者に
「皆さん、シベリアに行くのですか?」と笑われてしまった。
土地柄とはいえ、初めて経験することが教多く、戸惑ったものである。

だが、天も私達に味方した。
小樽に行った時、初雪が降ったのである。
次回作に予定している、小林多喜二の記念碑の前で集合写真をとった。
出来上がった写真は、雪でいくらかぼけてはいたが
皆、嬉しそうだったのを思い出す。

北海道は列車のダイヤが少なく、移動は列車とバスの二本立てであった。
弾丸道路と言われる、真っ直ぐ長く続く道路は
どこまでも続いているように思えて
劇団が末永く続くことを祈ったものである。
バス移動で、途中トイレ休憩で10分ほど休んで出発した事があった。
15、6分ほど経って1人乗ってないことに気づいた。
あわててもどったら、その一人が頭から湯気を出して怒っていた。
現九プロ社長の平林尚三である。

旅公演もまあ何とか終了し、
今はない青函連絡船に乗って十勝ワインを飲み
カニを食ベ、コマイをかじりながら帰路についた。

そして、第2次劇団新人会旗揚げ公演、帰り初日のその日。
1970年11月25日
忘れもしない大事件が起きたのである。
三島由紀夫氏が割腹自殺したのである。
農協ホール(現JAホール)のロビーで、開演前の準備をしている時
号外を手にした山本学氏が
声をふるわせて通り過ぎて行った姿は、今も忘れられない。
その日の観客数は、半数にも満たなかった様に記憶している。

強烈な思い出の初日であったが
『若い座標』は再演事に描き変えられ
1972年夏まで各地を巡演し好評を博した。

第2回公演は小林多喜二の半生を綴った『早春の賦』で
初演は平珂町の砂防会館。
長山藍子、山本学を主演で幕を開けた。
この舞台装置は人力で回るのだが、当時としては画期的なものであった。
2階建ての構成舞台であったのだが
転換も早く、盆を回すスタッフの努力は大変なものであっただろう。
感謝にたえない。

残念なことにこの公演の後
『若い座標』の旅公演を最後に、山本学氏が退団。
校長役の山本耕一氏、教師役の岩崎信忠氏も退団した。
そして、その年の9月
第3回公演『明日の教師たち』の初日を待つことなく
創立メンバーで、制作部の荻原茂氏が腎臓病の為、帰らぬ人となった。

志を同じくした人達が、メンバーからはずれることは
悲しく残念な事だが
同時に、新しい仲間も増えてきたのである。


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